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たまにはマジメに。

お経の始まりかたは色々ありますが、そのうちの一つに「如是我聞」というのがあります。よく読む理趣経というお経では「じょしがぶん」といいますし、「にょぜがもん」と読む宗派もあるようです。このように私は聞いた、という意味で釈迦の生存時に文字がなく、後に弟子たちが集まって釈迦の残した言葉をまとめたことに起因します。

太宰治が文学界の先輩を批判した小説の名前にもなっています。

仏教において、残された教えや方法を大切にしていくことは非常に重要であろうと思います。釈迦の教え、真言宗で言うところの弘法大師の教え、そして残された様々な方法論。これらは全て、大切すべきことと理解をしています。

ただ、恐れずに私見をいうと、大切にしすぎてはいないだろうかと思います。仏教の本質は個々の人が如何に生きるか、その答えはそれぞれに有り、それを見出す手伝いが為すべきことだと考えています。しかし、その本来の目的ではなく、そこに至るための教えや伝承といった方法論に私たち自身がとらわれてはいるのではないかと思います。

その意味において、「如是我聞」という言葉は、何か大切な責任を放棄しているのではないかという後ろめたさを私に与えてきました。

昨日帰ってきましたが、1週間ほどイギリスに行ってきました。大英帝国という一時代を築き、今の人々もそのことに誇りを持っているように感じられました。嫁の若い頃のホームスティ先で、私のこともファミリーだと言ってくれた人たちと話す中で、「I think so~」が自分の口癖だと気づきました。日本語でも同じようなことを言っています。ただの「私はこう思います」なんですが、目からウロコのような気になりました。

「如是我聞」があるからこそできる「I think so」で良いのではないだろうか。

教えてもらったことや経験から学んだことを、自分の心で噛み砕き、自分の言葉に置き換え、しっかりと世の中に表現することこそ大切だと感じることができました。

何を今更という感じではありますが、何となく自分の勝手な問いかけに、自分の勝手な答えがまた一つ見つかった、そんな気がしています。

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